今年の総括2007 その四
穏やかな年の瀬である。風があまり強く吹かない。気温も比較的安定していて、厳しくない。夜、冷えはするが、日中は十度を越える。昨日も今日も十二度を越えた。今住んでいる寺田の本家は、ホソバの木の垣根が何箇所かあるが、昨日すでにざっと剪定してしまった。夕方の一時間半ほどを費やして、電動トリマー(いわゆるバリカンですな)を使っていっきにやり終えた。そして、今日は空き地の草刈、いろいろな場所の掃除など、年末の仕事も進ませることができた。最後に残った夏野菜であるピーマンの畝70mもフレールモアで粉砕した。
ピーマンをこれだけ長く引っ張って販売したのも久しぶりだが、最後まで虫にやられた果実が多かった。こんなことは初めてのことだ。ピーマンの実は、最初から最後までよくなり続けた。問題は、九月以降の虫の大発生である。九月に入って、一向に秋の風が吹かずに、いつまで経っても暑い日が続いたこと、これが虫の大発生を呼んだ、と感じている。ナスの虫も多かった。ナスにつく虫は、主にニジュウヤホシテントウだが、今年はヨトウムシが多かった。栽培方法が例年と変わらないので、虫の大発生した理由を挙げるなら、季節外れの暑さ、そういうことになるだろう。季節外れの気候は、最近は年中行事になりそうなくらいで、それらは単発の季節外れであることがほとんどであった。しかし、今年の季節外れは、もはや季節外れと季節外れが連動したように長期化し、また予想のつきにくいものとなっている。そのもっとも顕著な例が、夏の長期化であろう。秋の長期予報では、冬の到来の早さが特徴となっていたように思うが、実際には温暖化の影響を色濃く反映し、夏の長期化のまま秋がずれ込んだような印象がある。これをもって、冬もずれ込み、春もずれ込むだろう、という単純な予想はしないほうがいい。
僕たち農に携わるものにとって、天気予報は貴重な情報源であるが、ここまで予報が外れてしまうと、予報をあてにした作業を組み込むことは馬鹿を見ることになる。その日の朝と昼とではまったく予報が違うということも、しばしばあった。つまり、朝の予報を、午後になっても信じていることではいけない、ということである。これからは、天気予報の前後の振幅を考慮しながら、早目の作業を予定しなければいけないだろう。風の向きや雲の色を常に意識して作業をしているが、明日になってどのように天気が変わっていくかは、天気予報に頼り切るほかはないのである。太古の時代のような、鋭敏な感覚はもはや失われてしまっている。頼りの経験が、季節外れには生かせない、というのも情けない話だ。
僕たちにあるのは、生きていく、という執念だ。天気予報が外れたり、天候不順が連動したところで、天変地異が起きているわけではない。「何だよ、予報と違うじゃないか」と嘆いて見せたりもするが、瞬間瞬間で次の手は打てる訳で、そこにこそ経験が生き、執念を垣間見せるのだ。執念という言葉は、あまり好きな言葉ではなかったのだが、いつの間にか、そのくらいの気持ちがなければとても生きていくことはできない、くらいの自分に変わっていた。そのことを確認したのが、二〇〇七年であったと自分自身を省みている。自分の肉体と相談して、執念を表現することのできる、そんな落としどころを探し続けている。
ピーマンをこれだけ長く引っ張って販売したのも久しぶりだが、最後まで虫にやられた果実が多かった。こんなことは初めてのことだ。ピーマンの実は、最初から最後までよくなり続けた。問題は、九月以降の虫の大発生である。九月に入って、一向に秋の風が吹かずに、いつまで経っても暑い日が続いたこと、これが虫の大発生を呼んだ、と感じている。ナスの虫も多かった。ナスにつく虫は、主にニジュウヤホシテントウだが、今年はヨトウムシが多かった。栽培方法が例年と変わらないので、虫の大発生した理由を挙げるなら、季節外れの暑さ、そういうことになるだろう。季節外れの気候は、最近は年中行事になりそうなくらいで、それらは単発の季節外れであることがほとんどであった。しかし、今年の季節外れは、もはや季節外れと季節外れが連動したように長期化し、また予想のつきにくいものとなっている。そのもっとも顕著な例が、夏の長期化であろう。秋の長期予報では、冬の到来の早さが特徴となっていたように思うが、実際には温暖化の影響を色濃く反映し、夏の長期化のまま秋がずれ込んだような印象がある。これをもって、冬もずれ込み、春もずれ込むだろう、という単純な予想はしないほうがいい。
僕たち農に携わるものにとって、天気予報は貴重な情報源であるが、ここまで予報が外れてしまうと、予報をあてにした作業を組み込むことは馬鹿を見ることになる。その日の朝と昼とではまったく予報が違うということも、しばしばあった。つまり、朝の予報を、午後になっても信じていることではいけない、ということである。これからは、天気予報の前後の振幅を考慮しながら、早目の作業を予定しなければいけないだろう。風の向きや雲の色を常に意識して作業をしているが、明日になってどのように天気が変わっていくかは、天気予報に頼り切るほかはないのである。太古の時代のような、鋭敏な感覚はもはや失われてしまっている。頼りの経験が、季節外れには生かせない、というのも情けない話だ。
僕たちにあるのは、生きていく、という執念だ。天気予報が外れたり、天候不順が連動したところで、天変地異が起きているわけではない。「何だよ、予報と違うじゃないか」と嘆いて見せたりもするが、瞬間瞬間で次の手は打てる訳で、そこにこそ経験が生き、執念を垣間見せるのだ。執念という言葉は、あまり好きな言葉ではなかったのだが、いつの間にか、そのくらいの気持ちがなければとても生きていくことはできない、くらいの自分に変わっていた。そのことを確認したのが、二〇〇七年であったと自分自身を省みている。自分の肉体と相談して、執念を表現することのできる、そんな落としどころを探し続けている。
この記事へのコメント
季節外れの話、野菜たちの話から、人生と
天気予報、執念と繋がっていくところに
ああ、私の2007年もそういう風だったなと
昨年を振り返り感じました。
今年もよろしくお願いします。
人は、自分と自分、自分と自分でない人、自分と外の世界、そんなものしか持ち合わせていませんものね。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。